ユリの変身‐小林嵯峨のために‐
スサは、美しい女名スザンナ(ヘブライ語のユリ)と同語根の、ユリのように白かった古代ペルシアの砂漠都市である。小林嵯峨さんが、その廃亡した古代都市の記憶を舞踏化されるという。
ユリはふしぎな花である。あらゆる花と同様に、それは花としては女性(の性器)だが、葉としては男性である。マリアの受胎告知の絵では告知の瞬間にユリが捧げられる。花としては純潔な処女であって、またそれに捧げられる男性性器。しかも多くの神話では、天界の処女神に捧げられた瞬間に、この男神は処女神に呑み込まれ一体化して、供犠の死(春の受難)をとげなくてはならない。ユリの処女受胎には愛する男神の死が先立ち、その後には復活が起こる。
小林嵯峨さんにとって、復活を前にして先立ったその人が、亡父にせよ、亡夫にせよ、あるいは故土方巽師にせよ、亡き男神に捧げられる舞踏には、白という色の絶対受動を媒介として刻々に変身する秘蹟のユリが花咲くのでなくてはならない。すでに舞台には、愛死の記憶と復活の予感にふるえる一本のユリが立っている。
種村季弘
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「花の内面」
人生の、深い悲しみ、渾身の悩みの内で、舞踏を持ちつづけてきた肉体が、一輪の極まりの花を、きっと咲かせるであろうという思いを信じて見つめざるを得なかった人が、小林嵯峨さんです。
師は暗黒舞踏の創始者、故土方巽であり、芦川羊子さんと共に土方さんの舞踏創造になくてはならない舞踏手として永く活躍されました。
今回の「白溶」=びゃくようでは 夏の日盛りに大気に白く溶け入っていくような、かげろう(陽炎)、おぼろ〈朧〉のようなもの、自身を踊ってみたいという思いをお知らせ下さった。
桃山時代の画家、宗達に「蓮池水禽」という、水墨画の作品があります。まさに散らんばかりの蓮の花と、水面に泳ぐ雁の姿があり、あと少し空気が揺れれば花は落ちんという、危うい景色ですが、故に切なく、美しく、いとおしく心が打たれます。これこそ舞踏の内面世界、宇宙と申せましょう。土方師の「舞踏とは命がけで突っ立つ死体であるという言葉とともに、舞踏に求めた「形」「命」を一身に宿した彼女のヨコハマでの初舞台は、一日千秋の思いで待たれる、見逃せない公演である。
大野慶人
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朔風の只中に屹立する師・土方巽の、きな臭い肉体と異なり、小林嵯峨はかすかな空気のゆれにもしゃものように鳥肌立つ、やわらかな産毛の蜜の流れる肌の叢で風を舐めているが、内在する闇が放火されると、突然それはアウラにみたされ、緊張に収縮し、苦痛と恍惚が身体全体にひろがって波立つのだ。
今回の試みは、応挙の『幽霊』と芳崖の『悲母観音図』と『アウラヒステリカ』の図像が想像の原基だという。応挙の愛妾、芳崖の妻、パリ精神病院の少女オーギュスティーヌのデルタを形成するものは、子宮の揺らぎと光と死である。チベットからインド、中国を経て渡来した観自在ゆれ子宮の観音の語源はアヴァロキタ(光)であり、影のようなスペクタル〈幽霊〉から、オーギュスティーヌの痙攣する子宮の発作を通底し、それは嵯峨のやわらかい産毛を喰いちぎって侵入するはずである。
ヨシダ・ヨシエ
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皮膚という衣裳が風にゆれる髪の海が波立つ鼻腔のツイ道が崩れる乳房の恐山の巫子の屁で乳首の果実が割れるヴァジャイナの渓谷が泪で光る風は風は皮膚という衣裳の縫目から透明な坑夫のように内部へ滑りこむ肉体という実体らしき幻想が精神という幽霊の現実になる舞踏という儀式のオリジンになる小林嵯峨はたった一人で世界のすべてになるヨーロッパにアフリカにアジアにラテン・アメリカに幽霊が出る舞踏という精神とも言う風という幽霊が出る
ヨシダ・ヨシエ
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無明、無名の生命が真空に巣篭るヨモツヒラサカ
第六感が冴え渡る、
その深にして遠なるものの一歩目がここに印された
細江英公
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土方巽という大産婆に「イキ」を吹き入れられ
死ぬことのできない八尾比丘尼よ
あなたの35年は350年だ
そのカラダに刻印された、暗冥は今も鋭くギラリ・ギラリと光っている
麿赤児
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舞踏は抽象である。踊り手は閉じられた空間に生きる。彼らは言葉を交わさない。闇の奥から現れ、視界を横切り、再び闇の中へ帰っていく。彼らは顔を持たない。役割も使命もなく、歴史もない。まるで死者のようではないか。空の向こう、海の底からやって来た死者たちは合わせ鏡となって、地上のわれわれに“生とは何か”を暗示する。小林嵯峨の踊る舞台には、いつも馥郁とした一輪の花が咲く。まだ名前のないその花の、仄かな香り漂う東京の夜のどこかに、再び至福の時が訪れるだろう。
清水寿明 「太陽」編集長
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演出家から
人の手で、ささくれだってしまった、陸海空のたたづまいの間の魔を背負って彼女は踊りつづけている。
その魔は彼女を圧しつぶしてしまおうと、彼女の背に累々と重なってくる。今彼女は巨きな浄化の時を迎えている。だが、浄化のために飛び散る間の片々が人々につきささることを恐れている。なんというやさしさだ。なんという慈しみだ。そう、そのやさしさ、慈しみが、魔の片々を溶解しつくしてしまうだろう。陸海空のささくれも、その時一瞬凪ぎるだろう。そんな踊りが今回の「シャーメン」である。
麿赤児
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小林嵯峨舞踏公演「シャーメン」に寄す‐ある日、麿は舞踏は革命ですと私の語った
20世紀の芸術の特色は、シュールレアリズムに代表されるように諸々の個々人を巻き込んだ《運動》であり、その意識の高さにおいても前世紀まで見ることができなかったものである。単純化して言えば、20世紀はフランスで起こったシュールレアリズムに始まり、日本で胎動したブトーイズム(舞踏主義)で幕を閉じる、と言って過言ではない。舞踏の創始者土方巽死して10年。彼が残した遺産は多々あるが、土方は単なる舞踊の一革命者ではない。言語、思想、音楽、絵画、演劇等を暗黒の名において横断したかれの革命する一肉体が残したものは、新しい人間のための種子となるものだ。麿赤児は土方巽の革命する肉体若くして共鳴し、今まで一貫してその魂を磨きつづけてきた後継者である。70年代、大駱駝鑑の舞踏が内外の地でひとつの黄金時代を築いたことは周知の事実だが、そのかれが、過去の功績に取れわれず、土方の愛弟子である小林嵯峨の舞踏公演「シャーメン」の演出をする。小林嵯峨は暗黒の舞姫である。父、夫、師、という三人の愛する男性の死体をおのれの子宮に懐妊したこの舞姫は、舞台で、いつも激しいほど静かで、静々しいほど激しく死者たちと愛をちぎっている。麿赤児と小林嵯峨、革命する肉体と暗黒の愛が、どう交感し、どう錯乱して、作品を分娩するのか、見たい。
中村文昭
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小林嵯峨さんとの出会い
私が初めて小林嵯峨さんの透き通るような白い肉体を撮ったのは1969年2月のことだった。その年の5月に「写真映像」という新しい写真雑誌が出版されることになり、その創刊号の巻頭の口絵に32ページの画期的な新作を発表してくれという厳しい依頼があった。わたしはその熱意にこたえるために、10年近く暖めていた「抱擁」という作品を撮る時が来たと直感した。この話をきいた土方巽は秘蔵のダンサーたちの肉体をそっと貸してくれたのだった。秘蔵のダンサーとは玉野黄一、芦川羊子、小林嵯峨の3人だった。わたしの撮影中は眠いとか疲れたとか言うことは絶対禁句だったが、3人はそんなわたしの拷問のような仕打ちによく耐えてくれた。その驚くべき忠実さは、彼らが尊敬する師土方巽に捧げられたものだ。
その後、わたしは今日まで小林嵯峨さんの舞台を何十回と見てきたし、また、その舞台もときおり撮影してきた。だからわたしは自信を持って言えるのだが、とくに最近の嵯峨さんの舞台はますます深化し、師の土方巽に迫る凄さを見せるようになった。このたびの麿赤児演出による「シャーメン」で、真の土方巽の後継者の一人を目指す小林嵯峨さんがどのような飛躍をみせてくれるのか大いに期待したい。
細江英公
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記憶こそ、この闇を照らす光
私たちが嵯峨さんと一緒に過ごした楽しい日々、苦しい日々は、語ることの出来ないほど数多くある。とりわけ一番の思い出は彼女の結婚式の日。初めて舞台衣装ではない現実の白無垢に包まれた彼女が、雅叙園の長い廊下を毅然として歩いてきた日のこと・・・。この日仲人を頼まれた土方巽は、愛弟子を手渡す淋しさ、花嫁の父のような苦痛についに出席できず、私一人が仲人として彼女の手をとったのであった。その後、突然に彼女は若くして未亡人になってしまった。嵯峨さんが実際に生きぬいてきた人生、その真実にこそ彼女が多くのことを教えられ、学んできたように思う。麗なるものから霊なるものへ、存在の証から精霊の光に近づいてほしい。あなたの現実の物語を、物語の背後にある物語を、その裂け目を通り抜けて毅然と夜の果てへの旅をするあなたを、私たちは見たいと希う。
元藤アキ子
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小林嵯峨様
天才の弟子として生涯命ある限り肉体表現をしていくその姿に頭が下がります。またやりとおすその心がけ僕はりっぱだと思います。嵯峨さんが土方巽という天才を師にもったことは運命が暗黒に満ちているのでしょう、土方さんのつくりだした奇跡を土方さんの霊魂が舞台の上であなたに宿るのでしょう。
嵯峨さん、霊魂に満ち溢れた、ただならないものにしてください。僕は尋常じゃないものを見たいのです。お願いします。
四谷シモン
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玉野黄市氏も小林嵯峨氏も土方巽の高弟子中の高弟子である。今さら私が何をかいわんやである。土方巽は私らよりもよほど玉野氏や小林氏を信頼していたフシがある。
私は唐十郎と芝居をしていてどっちつかずのフラフラ坊主に見えていたに違いない。何時だったか、よほど土方師にも淋しい折だったのだろう。私を含めて何人かが集まった時“なーにだれもいなくなって俺はタマとやっていく”とやや大声で言われたことがある。もちろん玉野氏はサンフランシスコで何年も苦労?していてその場にいなかった。小林氏は土方さんの死水をとったほんの数人の一人だ。
とにかく、この二人の中のおどりの密度はそんじょそこらの並大抵ではない、とくに玄人はだしの眼玉にはこたえられないメニューだ。乞 必見!!
麿赤児
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闇と光のアウラ
小林嵯峨公演「月姫・・・無意識の花・・・」
土方巽直系の舞踏家として海外でも名高い小林嵯峨。動物、植物、胎児、少女、老婆など、舞踏を通じて森羅万象に取り組んできた彼女だが、現在は「アウラ=無意識と意識の境界」というテーマに果敢に挑んでいる。新作の「月姫・・・無意識の花・・・」では、女性ダンサーを中心に女性の身体の巫女性を掘り下げ、東洋人女性としての意識・無意識を探求して見せる。十九世紀パリのサルペトリエール施療院において記録された、ヒステリー患者の精神療法の写真集『アウラヒステリカ』を手掛かりに“意識”と“身体”の解放を目指した力作となった。「トランス」「催眠」と言った流行のタームを真摯に見つめ、日本人の身体性に鋭く迫る姿が潔く、また実に凛々しい。
「太陽」
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舞踏の断層
レアリスム、シュルレアリスム、そしてシュルナチュラリスムへ(下)
1968年から目黒のアスベスト館に住みつき6年間、土方巽の厳しい指導に耐え舞踏の奥義を叩き込まれた小林嵯峨の「逃走=フーガ」「01・10・6プランB」は19Cの後半、パリの精神病院での公開診察を記録した写真図像集『アウラヒステリカ』(リブロポート刊)をもとにしている。その舞台は、まるで女患者の赤裸々な症例を記録した図版と写真から立ち上がったかのように、体をねじ曲げ硬直させ、抑制や束縛に抵抗する姿勢の連続で、然も挑発的でセクシュアルだった。医師シャルコーと患者オーギュスティーヌの関係は、医師と患者といった密室の関係を超えて、見る、見られると言った双方向の劇場性を成立させていた。そうした現場に居合わせたフロイトは強い衝撃を受け、抑圧された性を無意識などのレベルに発見していく。また多大な影響を受けたシュルレアリストたちのなかでアンドレ・ブルトンは『ナジャ』で「この物語の記述に採用された語調が、医学上の観察、わけても神経・精神医学上の観察におけるそれを下敷きにしている」「美とは痙攣的なものだろう、さもなくば存在しないだろう」(巖谷國士訳、人文書院刊)と記している。シュルレアリスムといえばフロイト、ランボー、マルクスなどを統合して「精神の自由」を主唱したアンドレ・ブルトンの存在は大きい。ブルトンは『シュルレアリスムと絵画』のなかで「私の愛するすべてのこと、私の考える、感じるすべてのことが、内在性についてのある特別な哲学に私の心をむかわせ、それにしたがえば、超現実は現実そのもののなかにふくまれるだろうし、現実そのものよりも高次でも外部的でもないだろうし、ということになる。そしてその逆も真であろう、というのは、ふくむものはまたふくまれるものでもあるだろうからである。問題はほとんど、ふくむものとふくまれるものとの間の通底器であろう」(巖谷國士訳、人文書院刊)。 シュルレアリスム=超現実主義はブルトンのこの記述の影響力が大きい。
図書新聞 古沢俊美